直球の球威や変化球の切れ味に飛び抜けたほどのものはなかったが、それらを補って余りあるほど優れた制球力から「精密機械」の異名を取り、投手王国と呼ばれた1980年代の広島の主軸として活躍した。
直球は滅多に投げず最高球速は144km/hで、球種はスライダー、カーブ、シュート、シンカーなどであった。
精密機械と呼ばれるほどの抜群の制球力を身に着けたきっかけは、プロ入りして間もなく、並み居る先輩投手の投球練習を見て、そのボールスピードに圧倒されたことだったという。速度で敵わないならコントロールを磨くよう心がけ、3年頑張って結果を残せなかったら野球を辞めて故郷に帰ろうと考えていたと、後に本人は語っている。
そのコントロールの良さを示すエピソードとして、本塁上の三角形地点に置いた3個の空き缶を、たった3球投げただけで全て倒してのけたという話がある。バッテリーを組んでいた達川光男もその投球について「ミットを動かさずに捕れる」と高く評価しており、広島投手コーチ時代に「筋肉番付」で「ストラックアウト」に挑んだ際には、現役選手ですらなかなか達成できないパーフェクトを成し遂げていた。