アマチュア時代から剛球投手として名を馳せていたが、それと相反するように、自他ともに認めるメンタル面の弱さも持ち合わせていた。高校時代には、監督から精神安定剤と偽ったメリケン粉を渡されたこともあったという。
『弱気は最大の敵』『一球入魂』といった座右の銘や、打者に真っ向から立ち向かう投球スタイルは、元々はそのような自らの精神的な弱さを克服するために心がけていたものであった。二つの座右の銘を書いたボールを肌身離さず持ち歩き、登板する前には必ずそのボールに向かって気合を入れていた。
リリーフピッチャーとしての責任感が非常に強い選手だった。清川栄治のプロ初勝利が掛かった試合に登板し、メッタ打ちにされて清川の勝利を消してしまった時は、試合後に合宿所の清川の部屋へ30分おきに出向いては謝罪し続け、見かねたチームメイトが津田をなだめて止めたという逸話が残されている。また、負け投手になった翌日は誰よりも早く球場入りし、外野スタンドの階段を黙々と走り込んでいたという。
達川光男が連載コラムの中でこのことについて触れており、「外野スタンドを走っていたのは、試合を見に来てくれたファンへの謝罪の念の現れだったのではないか」と述べている。
ピンチになればなるほど球速が上がっていく傾向があった。1986年の対阪神タイガース戦、9回裏1死満塁同点(4対4)の場面では、2番打者の弘田澄男に143km/h・148 km/h・151
km/hのストレートを投じて3球三振に仕留める。その後の3番打者、当時絶頂期にあったランディ・バースに対しても全て150km/h超のストレートで挑み、3球三振に斬り捨ててピンチを脱した。
この試合を実況していた毎日放送アナウンサーの城野昭は「津田、スピード違反!」と叫び、バースは試合後に「ツダはクレイジーだ」というコメントを残している。