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球団の歴史

1950年代

広島の初年度の成績は、優勝した松竹ロビンスと59ゲーム差をつけられ、ブッチぎりの最下位(8位)に終わった。両リーグ通じて広島だけが勝率3割を下回るという、悲惨な成績だった。
しかし、戦力補強をしようにも資金がない。さらに選手へ払う給料や、遠征費も工面できない状況となり、一度は役員会で球団解散が決定! だが、石本監督の説得もあって、何とか解散は免れたという。

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1960年代

1960年代になると、チーム成績不振が続き、一向に強くならないチームに対して、市民は創設当初の熱が冷め、観客動員数が減る。さらに、1967年のオフシーズンになると東洋工業社長の松田恒次氏が球団オーナーに就任した。
これは事実上、自治体や市民で支えてきた「市民球団」という形が終わりをつげたことを意味した。その影響なのか、1968年は球団を創立して初めてAクラスに入ったのだが、観客動員数は47万8000人に大きく減少した。

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1970年代

1970年代に入ると、ヤンキース戦法など大リーグの戦法を道入やアメリカの教育リーグへの参加などの工夫、法政大学のスラッガー山本浩二獲得などの選手補強が実り、ついに1975年には念願の初優勝し、観客動員数も100万人を突破した。

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1980年代

1980年、連覇を目指す広島は夏場から独走し、巨人以外のセ球団では初の連覇達成。中でも、本拠地・広島では無類の強さを発揮して19連勝した。日本シリーズでも2年連続の対戦となった近鉄を4勝3敗で返り討ちにした。
オフに連覇に貢献した江夏らを放出、以後抑えは大野が代役を務める。主砲・山本浩は、80・81年に2年連続本塁打・打点の二冠王、83年も本塁打王に輝き、チームを牽引して行く。82年には、津田が球団初の新人王、以後84年から3年連続で小早川・川端・長冨が受賞。いずれもチームの主力へと成長した。

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1990年代

1989年にミスター赤ヘル・山本浩二が監督就任。3年目の91年は、前年新人王の佐々岡が防御率2.44・17勝で二冠を獲りMVP。大野が32SPで最優秀救援、川口が最多奪三振、北別府が最高勝率。
チーム最多本塁打者が11本という貧打線を強力投手陣がカバーして、5年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズでは5年前と同様、西武相手に先に王手を掛けながら惜敗したが、前評判を覆す大健闘の一年だった。

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2000年代

山本浩二が8年ぶりに監督として復帰。しかし、チーム成績は2001年は勝率3位ながら勝利数で横浜を下回り4位。2002年、2代目オーナー松田耕平が死去し、3代目オーナーにオーナー代行の松田元が就任する。2002年~2004年まで3年連続の5位。元大洋4番・松原誠をチーフコーチに招聘し、新井貴浩が中軸打者に成長する。一方で金本知憲が2002年オフにはFAで阪神に移籍する。2004年には嶋重宣が首位打者・最多安打・ベストナインを獲得。

2005年に、投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘。新井貴浩が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。この年のシーズン終了後に、山本浩二は監督を辞任、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退。

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2010年代

97年以降、一度もAクラス入り出来なかったカープだが、栗原健太、永川勝浩、前田健太、梵英心、福井優也、野村祐輔ら生え抜きのレギュラーが着々と成長を続けていた成果が形になり始めたのが2013年。
2013年は前田健、大竹寛、野村、ブライアン・バリントンが10勝カルテットを形成し、野手陣は東出輝裕に代わってセカンドに定着した菊池涼介ら若手選手が活躍し中日、横浜DeNAらを振り切って1997年以来の3位Aクラス入りを果たした。

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達川光男珍プレー集