1950年代後半
1955年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
4 |
130 |
58 |
70 |
2 |
0.453 |
33.5 |
白石 勝巳 |
この年から、助監督に門前真佐人、2軍監督に野崎泰一が就任する。
2月28日、カープ産みの親、谷川昇が衆議院選挙当選の報を聞きながら、脳出血のため急逝する。
3月11日、入団したばかりの日系2世平山智が広島入りし、市内パレードに10万人が押し寄せる。シーズンは4位(58勝70敗2分)を確保し、長谷川良平が30勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。
また、この年は球団創設以来の「広島野球倶楽部」の負債が5,635万円まで達してしまい、もはや後援会の手にも負えなくなってしまった。そこで負債を帳消しにするため「広島野球倶楽部」を倒産させて、新たに地元財界の協力を得た新会社を設立することが決定。12月17日、広島野球倶楽部は臨時株主総会を開き、「発展的解消」を決議。その結果、12月19日の第1回新会社発起人会を経て、「株式会社広島カープ」(初代社長は広島電鉄の伊藤信之)が発足。資本金は500万円(東洋工業、広島電鉄、中国新聞社など13社が出資)。
なお、セ・パ両リーグ理事会では「広島野球倶楽部解散により、選手の拘束力は無くなり彼らは自由契約になった(他球団が獲得できるようになった)」、「新会社はリーグ加盟金を支払い直すべき」と非難の声が上がるが、「会社の名称変更にすぎない」と押し切っている。
1956年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
5 |
130 |
45 |
82 |
3 |
0.358 |
37.5 |
白石 勝巳 |
開幕から4連敗を喫するなど序盤戦から低迷し、5位(45勝82敗3分)に終わる。
5月20日、広島総合球場で開催された対読売ジャイアンツ戦で木戸美摸投手負傷事件が起こる。
7月17日、地元政官界の六者会談を経て、広島市民球場 (初代)の建設地が「旧二部隊営庭跡地」(現在の広島電鉄原爆ドーム前停留場横)に正式決定する。
1957年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
5 |
130 |
54 |
75 |
1 |
0.419 |
21.0 |
白石 勝巳 |
1月14日、地元10社が広島市民球場 (初代)の建設資金1億6千万円の寄付を広島市に申し入れる。 2月22日、「旧二部隊営庭跡地」にて、新球場起工式が行われる。
7月22日、広島市民球場 (初代)の完工式が行われ、引き続いて行われた点灯式にはファン1万5千人が詰めかける。
7月24日に行われた新球場開幕試合の阪神戦では、初ナイターで集まった大観衆を前にして、緊張のため選手が皆固くなってしまい1-15で大敗している。
シーズンは、白石監督の「闘志無き者は去れ」のスローガンの元、キャンプから猛練習を行った成果が出て、オールスター戦までは32勝26敗と健闘したものの、後半に入って失速し、最終的には54勝75敗1分の5位に終わっている。
1958年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
5 |
130 |
54 |
68 |
8 |
0.446 |
19.5 |
白石 勝巳 |
広島市民球場(初代)が完成した結果、観客動員数が大幅増となり球団財政にゆとりが出来たこともあって大補強を敢行する。その結果、古葉毅、森永勝治、小坂佳隆、鵜狩道夫、拝藤宣雄、大和田明ら、1960年代のチームを支える人材が一斉入団した。一方で「立教三羽烏」と謳われた長嶋茂雄、杉浦忠、本屋敷錦吾の獲得にも動いたが、彼らは入団の意志は見せなかった。
また、1950年の灰島元章以来、8年ぶりにコーチを置いた(ヘッドコーチに門前真佐人、コーチに野崎泰一、藤村隆男)。7月10日には、総工費1,700万円をかけた自前の選手寮「三省寮」が完成する。同月29日には、広島では初となるオールスター戦が開かれた。
シーズンは、4月8日の中日戦から6連敗、同月24日の阪神戦から10連敗を喫するなど前半戦の不調がたたって、5位(54勝68敗8分)に終わった。シーズン終了後の12月26日、小鶴誠がチーム若返り策により引退を表明する。
1959年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
5 |
130 |
59 |
64 |
7 |
0.481 |
17.0 |
白石 勝巳 |
この年は、新人とトレードを合わせて19人もの補強を敢行する。その結果、チームの平均年齢が21.9歳と、当時12球団で最も若いチームとなった。また広島市民球場(初代)で行われた春のキャンプでは、球団初のピッチングマシンを導入している。
2月19日、新しい球団旗を発表。この球団旗は以降、変更されていない。 5月7日の対阪神タイガース戦で球団通算500勝を達成。8月には二軍がウエスタン・リーグ初優勝達成。
シーズンは、前年に引き続き5位に終わったものの、勝敗は59勝64敗7分であり、勝率481は過去最高であった。主軸に座った大和田明は、樋笠一夫の持つ球団記録21本塁打を塗り替える23本塁打を放っている。またこの年の観客動員数は862,965人と、12球団中、巨人に次ぐ2位の集客力を見せた。
1950年代前半