1960年代後半
1965年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
5 |
140 |
59 |
77 |
4 |
0.434 |
31.0 |
白石 勝巳, 長谷川 良平 |
この年は、5月に一時は首位に立つ快走を見せていたのだが、その翌日には首位陥落してしまい一日天下に終わってしまった。最終的には、このシーズンは首位巨人と31ゲーム差の5位で終わる。
1966年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
4 |
136 |
57 |
73 |
6 |
0.438 |
32.0 |
長谷川 良平 |
この年は、6月に広島総合球場で開催された対阪神戦で山本一義が死球を受けたため一部のファンが暴徒化。
一塁側内野席から投げられたウイスキー瓶が右翼線審の額に当たり全治10日の怪我を負う事件が発生。
そのため一塁側応援団の応援を一時見合わせる措置をとった。
1967年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
6 |
138 |
47 |
83 |
8 |
0.362 |
37.0 |
長谷川 良平 |
この年から運営を'東洋工業'に一本化させ経営の安定化を図る。
そして球団名が「広島カープ」から「広島東洋カープ」となる。略称は広島東洋。
1968年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
3 |
134 |
68 |
62 |
4 |
0.523 |
9.0 |
根本 陸夫 |
洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が筆頭株主となりオーナーに就任。松田耕平がオーナー代行に就任。球団名を広島東洋カープに改称。市民球団としての体裁を保ちつつも、東洋工業をメインスポンサーとする松田家私有の同族経営球団となる。根本陸夫が監督就任。
阪神との開幕3連戦に連勝し首位でスタートするも、5月に7連敗で一時3位に転落。しかし6月には首位に返り咲き、7月初めまで守った。外木場義郎・安仁屋宗八両投手の活躍もあって3位となり、球団創立19年目にして初のAクラス入りを果たした。球団創立1年目(1950年)から1967年までの18年連続Bクラスは、当時の日本記録で、現在でもセ・リーグワースト記録。
1969年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
6 |
130 |
56 |
70 |
4 |
0.444 |
18.0 |
根本 陸夫 |
前年とは一転し、最下位に終わる。
根本時代は、当時巨人がV9時代を迎えている事もあり、成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄と山本浩二のYK砲に水谷実雄ら、後の「赤ヘル軍団」フィーバーを巻き起こし中核を成した選手の台頭を促した。
1960年代前半