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1970年代後半

1975年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 日本シリーズ 監督
1 130 72 47 11 0.605 -4.5 0勝4敗2分 ルーツ, 古葉 竹識


球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任。「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、燃える闘志を表す意味をこめて帽子・ヘルメットの色が紺色から赤になった。
しかし開幕早々の4月27日の対阪神戦において佐伯和司の投球判定を巡って猛抗議、試合のボイコットを起こす騒動となった。この時、重松良典球団代表が試合続行を支持したため、試合中の介入に不満を持ったルーツは4月30日に監督辞任、5月2日までの代行にコーチの野崎泰一が就き、翌5月3日古葉竹識がコーチから監督に就任。この年のオールスターゲームの第1戦(甲子園)では山本浩二と衣笠祥雄が共に1試合2本塁打を記録するなど、赤ヘル旋風を巻き起こした。

中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創立25年目で初優勝達成した。結果的に2位中日と4.5ゲーム差、3位阪神と6ゲーム差と大混戦だった。日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。
この年の首位打者となった山本浩二や衣笠祥雄、最多勝の外木場義郎、盗塁王の大下剛史らの活躍が目立った。優勝後、平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めた。この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破した。またこの年は春に山陽新幹線が岡山駅から博多駅まで延伸開業し、チームの遠征時の列車乗車時間が大幅に短縮された。
これを振り返って、外木場は「カープが優勝できたのは新幹線のおかげ」とも語っている

1976年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
3 130 61 58 11 0.513 14.0 古葉 竹識


池谷公二郎が20勝を挙げ最多勝と沢村賞。
巨人・阪神との優勝争いに加われず当初は山本浩の不振もあって低迷。最後はかろうじて3位に。

1977年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 130 51 67 12 0.432 25.0 古葉 竹識


5位に終わる。胸文字・胸番号・背番号・アンダーシャツ・ストッキングが赤一色になり、この年から“カープ=赤”が定着する。
12月23日、江夏豊が南海ホークスより移籍。高橋里が20勝。3年連続同一チームから最多勝投手を輩出。
セでは以降なし。一方前年の最多勝の池谷投手はシーズン最多被本塁打48(歴代1位)の記録も。

1978年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
3 130 62 50 18 0.554 5.0 古葉 竹識


カープ打線が最も破壊力を発揮したシーズンで、この年のチーム205本塁打は日本プロ野球記録を更新。44本の山本浩二や、40本のヘンリー・ギャレット、33本のジム・ライトル、30本の衣笠祥雄など4人が30本以上を記録した。
また打点692、得点713は、ラビットボールを使用して本塁打の増えた1948年-1950年を除いてのプロ野球最多得点であった。しかし首位ヤクルトスワローズと5ゲーム差の3位に終わる。

1979年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 日本シリーズ 監督
1 130 67 50 13 0.573 -6.0 優勝(4勝3敗) 古葉 竹識


開幕前から独走が予想されたが、開幕は4連敗スタート、序盤は苦戦が続いた。しかし、衣笠の死球による亀裂骨折や、高橋慶彦の33試合連続安打でチームに勢いが付き、8月になり一気に首位に立つと4年ぶり2度目のリーグ制覇。
日本シリーズでは、近鉄バファローズを4勝3敗で下し、悲願の日本一を達成する。
第7戦では、江夏がノーアウト満塁という絶体絶命の場面を無失点で切り抜け日本一に導く(江夏の21球)。
1970年代前半

達川光男珍プレー集