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2000年代後半

2005年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
6 146 58 84 4 0.408 29.5 山本 浩二


投手陣再生の切り札として安仁屋宗八コーチを招聘。新井貴浩が本塁打王を獲得し、エース格の、ジョン・ベイルを抑えに転向させるも初めての交流戦での失速や投手陣の不調が響いて最下位に転落。
この年のシーズン終了後に、山本浩二は監督を辞任、2000本安打を達成した野村謙二郎も現役を引退。

2006年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 146 62 79 5 0.440 25.0 ブラウン


ルーツ以来31年ぶり、球団史上2人目の外国人監督となるマーティ・ブラウンが監督に就任。戦力補強は、チームのモチベーション低下を懸念して最小限に抑え、先発投手の負担を抑えるため、投手の分業化を図った。キャプテンは野手陣・前田智徳、投手陣・黒田博樹が就任。
開幕戦から4月11日の巨人戦まで、1961年の国鉄スワローズが持っていた7試合連続2得点以内のプロ野球ワースト記録を更新し、9試合連続となった。
その後も波に乗れず、黒田博樹以外の先発投手が期待に応えられずに借金を増やし、5位に終わる。

2007年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 144 60 82 2 0.423 19.5 ブラウン


キャプテンは前年に引き続き、前田と黒田。交流戦までは5月の大型連勝で10以上あった借金を返済し、5割を維持していた。このシーズンからセ・リーグでは初となるプレーオフ制度(クライマックスシリーズ)が導入され、進出を目指したが、交流戦で最下位に沈み優勝争いから脱落。最終順位は前年と同じ5位に終わった。
課題の投手陣では黒田以外にも大竹寛が先発として一定の成績を残したものの3番手以降が続かず、守護神・永川勝浩がたびたび救援失敗するなど中継ぎ陣も安定感を欠いた。チーム防御率もリーグワーストの4.22に終わり、課題を克服することはできなかった。シーズンオフに新井貴浩と黒田博樹がFA宣言。新井は阪神に、黒田は大リーグ・ロサンゼルス・ドジャースに移籍。

投打の柱を失った球団は、思い切った組織改革を行うなど、新たな球団経営に取りかかった。

2008年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
4 144 69 70 5 0.496 14.0 ブラウン


苦手の交流戦を13勝11敗として4年目にして初の勝ち越しを記録し、対巨人戦も12勝10敗2分けでこちらも勝ち越しを記録している。若手の台頭などもあり、中日やヤクルトと熾烈な3位争いをしたものの選手層の薄さ、慢性的な戦力不足や経験不足から終盤に息切れし11年連続Bクラス、シーズン成績も7年連続負け越しが確定したが、北京五輪での主力選手離脱による上位チームのもたつきなども幸いして最終的に7年ぶりの4位となった。
延長戦、コールドゲームを除いた試合時間が12球団で最短だったことから、スピードアップ賞をチームで受賞した。

2009年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 144 65 75 4 0.464 26.5 ブラウン


この年から、広島県を本拠地とするスポーツクラブの連携組織「トップス広島=広島トップスポーツネットワーク」に正式加盟。本拠地も旧・広島市民球場から「MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島(広島市民球場)(通称・マツダスタジアム)」に変更した。
オープン戦の最中に栗原健太のWBC参戦に伴い、3月20日にスターティングメンバーを急遽変更した。

シーズン中は投打がかみ合わない試合が多く、低迷状態に陥り、対中日戦では11連敗で球団記録を59年ぶりに更新した。しかし、後半戦ではヤクルトの急失速から阪神・ヤクルトとの三つ巴状態で3位争いを展開し、一時は3位と0.5ゲーム差という僅差であったものの、阪神の粘りやヤクルトの追い上げなどから3位争いから離脱し5位。Aクラス入りという続投条件をクリアできなかったためブラウン監督と再契約せず退任が決定し、ブラウンは楽天の監督へ移籍した。
この年、緒方孝市が現役引退している。ブラウンの後任は野村謙二郎。チーム勝ち頭であったコルビー・ルイスが残留目前から一転して退団。
2000年代前半

達川光男珍プレー集