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1950年代

1950年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
8 138 41 96 1 0.299 59.0 石本 秀一


1月15日、西練兵場跡(現在は広島県庁一帯)でチーム結成披露式が行われ、ファン2万人が押し寄せる。この日は辻井弘ら7名の追加選手を発表している。翌16日には広島総合球場で新人採用テストが行われ、この中にいた長谷川良平は即座に石本監督の目に止まり、21日に選手契約を結んでいる。3月10日に福岡市の平和台野球場でセ・リーグ開幕戦が行われ、西日本パイレーツとのこの年から加盟の球団同士の公式戦初試合となったが、5対6で敗れている。3月14日の国鉄戦で打線が奮起して16-1と球団初勝利を挙げたものの、その後チームは著しく低迷する。

11月13日の大洋とのダブルヘッダーで共に敗れ13連敗を記録するなど惨憺たるチーム状況で、この年優勝した松竹ロビンスには59ゲーム差をつけられた8位(最下位)に沈んだ。さらに勝率3割に到達できなかったチームは両リーグ通じて広島だけ(勝率.299)だった。白石勝巳が遊撃手としてベストナインを受賞した。

1951年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
7 99 32 64 3 0.333 41.0 石本 秀一


2月分の給料や合宿費が支払えず、3月16日から甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費もねん出できないほど経済的に追い詰められる。選手達は「甲子園まで歩いていこう」と意気盛んだったが、3月に球団社長の檜山袖四郎、球団代表代理の河口豪(中国新聞東京支社)、大平正芳(後援会会長・池田勇人の代理)はセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない」「早急に身売りしてはどうか」と厳しい叱責を受けた結果、3月14日、広島市の天城旅館で行われた役員会で当時下関市にチームがあった大洋との合併が決まった。
しかし報告を受けるために後から役員会に参加した石本監督らの説得で合併方針は撤回され、ファンに協力を求め危機打開を図ることになった。3月15日、ナインは急行「安芸」で準公式トーナメント大会に無事出発。3月23日、鈴木竜二セ・リーグ顧問と河口豪球団代表代理との会談でチーム存続が正式決定している。球団の資金難を救うべく甲子園から帰広した石本監督は3月20日、広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表する。

これらの事情から、この年の広島の公式戦の開幕は他より9日遅れて、4月7日の広島での対阪神戦となった。石本監督はシーズン中も試合の采配は助監督の白石に任せて、自身は球団の苦境を訴えるべく広島県内各地の公民館、学校を回り辻説法、さらには中国新聞に資金調達の必要性を訴える投稿を続けた。その結果、7月29日の国鉄戦直前にセレモニーが開かれ、石本が構想したカープ後援会は正式に発足した。この時、既にカープ後援会は1万3千人の会員数に達しており、その結果、年末までに400万円(当時)を集めている。

この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX~挑戦者たち~」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。
しかし、シーズン途中に前年度クリーンナップとしてチーム最多の21本塁打・72打点を記録した樋笠一夫が契約で揉め、巨人に移籍してしまうなど、前年に引き続きペナントレースは苦戦を続け、チーム成績は2年連続の最下位に終わった。この年は西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパーズに吸収合併されたことで、7球団による20回総当り戦の120試合だったが、秋にアメリカ選抜チームの来日(日米野球)があったため順位決定後の試合は全て打ち切られた。特に広島は最下位決定の後、一番多い21試合が打ち切られ99試合しか消化出来なかった。

12月25日には、エースの長谷川良平が自由契約選手として名古屋ドラゴンズへの移籍を表明する。これは当時、12月15日までに球団は選手に対して、契約更改を書類で申し込む規則になっていたのだが、印刷会社の手違いにより、名古屋に里帰りしていた長谷川には、期日までに書類が届かなかったことに端を発する。だが翌年3月10日のコミッショナー裁定により長谷川の広島復帰が決まっている

1952年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
6 120 37 80 3 0.316 44.5 石本 秀一


開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされた。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった広島は処罰の最有力候補だった。

こうして迎えた1952年シーズン、開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率220)と最下位に沈んでいた。だが、そこから選手が奮起し、残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れた。長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ、さらに杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入ったが、これは球団として初の投手ベスト10入りとなった。

なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになった。これにより広島で圧倒的な人気を誇ったカープは、球団収入の安定化に目途が立つことになった。
10月15日、後援会が「松竹の小鶴・金山らを広島へ」を合言葉に1,000万円募金を行うことを決定する。またこれら動きとは別に、シーズン終了後の代表者会議で勝率3割を割った松竹に合併を申し入れたが拒否されている(最終的には松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併して大洋松竹ロビンスとなった)

1953年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
4 130 53 75 2 0.414 36.0 石本 秀一, 白石 勝巳


松竹から赤嶺昌志一派(小鶴誠・金山次郎・三村勲)が集団で移籍した。小鶴は3月1日の午前2時48分に広島駅に到着したが、既に200人のファンが待ち構えており、小鶴をトランペットで盛大に祝っている。小鶴・金山に続いて外国人選手を獲得するため、後援会は更に400万円を集め、その結果、日系二世選手である銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)・光吉勉が入団した。6月19日に銭村らは広島入りしたが、その際に盛大なパレードが挙行され、10万人の歓迎で市中を紙吹雪が舞った。

さらにオールスターのファン投票では、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手が選出。競争になれば大都市には敵わないため、後援会会員は投票最終日に一斉投票を行っており、「集団投票事件」などと批判を浴びた。
なお5月1日、球団役員会にて、球団と後援会を1本化し、石本監督は「総監督兼常務取締役」として球団運営に専念し、助監督の白石が選手兼任で監督に昇格することが決定。5月3日の国鉄戦が石本の最後の指揮となった(試合は7-1で勝利)。

また、1952年から53年はユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけだった。このユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。

1954年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
4 130 56 69 5 0.448 29.5 白石 勝巳


この年はチームの若返りを図り、前年から7人が退団し、新たに19人が入団している。 また、発足したばかりの新日本リーグに、二軍(広島グリーンズ)が参加した。
この頃になると、給料の遅配はなくなったように球団の財政事情は明るくなってきたものの、首脳陣は監督の白石以外にコーチがおらず、シーズンオフには白石が選手をスカウトしたり、キャンプでは白石自ら外野でボールの球拾いという状況であった。

2月11日、ジョー・ディマジオとマリリン・モンロー夫妻が新婚旅行のため宮島口(現:廿日市市)に一泊したが、翌12日から2日間にわたり、ディマジオはカープナインに打撃指導を行っている。
シーズンは、開幕試合の4月3日中日戦から7連敗を喫する最悪のスタートとなったものの、9月22日、23日の巨人戦で3連勝するなど後半戦は追い上げて、4位(56勝69敗5分)を確保した。
1950年代後半

達川光男珍プレー集