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1960年代

1960年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
4 130 62 61 7 0.504 6.5 白石 勝巳


1月11日、河口豪球団代表が辞任、後任は山本正房中国新聞社社長。

この年、球団創設11年目で初めてシーズンで巨人に勝ち越し(17勝8敗1分)、勝率も5割台を達成(62勝61敗7分)する。大石清が球団3人目となるシーズン20勝超え(26勝13敗)し、興津立雄は打率2割6分8厘・21本塁打・64打点の成績を残してチーム3冠王となった。
1953年以来7年間指揮をとった白石監督はシーズン終了直後の10月6日に、「チームの地固めは出来た」として退任を発表。

1961年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 130 58 67 5 0.465 13.5 門前 真佐人


「地固め」は出来たと前年限りで辞任した白石は語っていたが、この年から勝率5割を切ってしまう。
さらに、市民は創設当初の熱が冷め、観客動員数が減ってしまう。

1962年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
5 134 56 74 4 0.431 19.0 門前 真佐人


1962年まで門前眞佐人が監督を務めたが、いずれのシーズンも勝率5割を割り辞任。
1962年、前年に現役を引退した上田利治がコーチに就任。専任コーチとしては日本プロ野球史上最年少の25歳で就任している。しかし、1969年シーズン後、当時の監督である根本陸夫とチーム強化の方針をめぐっての意見の対立から退団している。

1963年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
6 140 58 80 2 0.420 25.0 白石 勝巳


門前眞佐人に代わる新監督として小鶴誠を招聘しようとするが球団役員の意志統一が出来なかったため、球団社長:伊藤信之が辞任。後任に東洋工業(現・マツダ)社長の松田恒次が就任し、白石勝巳が再び監督となる。

1964年

順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 監督
4 140 64 73 3 0.467 16.5 白石 勝巳


この年の5月に巨人の王貞治を抑え込む作戦として、白石監督考案の王シフトが初めて使われる。
当時、広島カープのスコアラーを務めていた川本徳三は王の打球が右方向に集中していることに目をつけた。そこで川本は地元企業で後に広島に資本協力をすることになる東洋工業(現マツダ)の所有する電子計算機を使って王のデビュー戦以来の全打席の打球方向を数値化し、白石はその結果に基づいて選手の守備位置を決めたという。
1960年代後半

達川光男珍プレー集