1990年代
1990年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
2 |
132 |
66 |
64 |
2 |
0.508 |
22.0 |
山本 浩二 |
新外国人のロッド・アレン、ウェイド・ロードンが加入。アレンが故障で離脱するもロードン、小早川、西田真二もしくは長内孝でクリーンナップを形成。津田恒実が最優秀救援投手。優勝した巨人と9ゲーム差の2位に終わる。
また、この年にはドミニカ共和国に、カープ独自の野球学校「アカデミー・オブ・ベースボール」が開校された。
1991年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
日本シリーズ |
監督 |
1 |
132 |
74 |
56 |
2 |
0.569 |
-3.0 |
3勝4敗 |
山本 浩二 |
4月に津田が戦線を離脱し闘病生活に入る。津田の穴を埋めるべく大野が抑えに転向。野手陣では野村謙二郎が高打率、盗塁王を獲得してチームを牽引。しかし長打不足で絶対的4番が不在(チーム最多本塁打は規定打席に達していない江藤の11本)の中勝負強い西田真二、山崎隆造などが少ないチャンスの中奮闘する(優勝を決めた試合も初回に西田のタイムリーの1点を9回まで守りきった)。
2年目の前田智徳がレギュラーに定着、江藤智も三塁手として出場し長打力の片鱗を覗かせる。投手陣は二年目の佐々岡真司がMVP・最多勝・最優秀防御率・沢村賞。
川口和久が最多奪三振。北別府が最高勝率。大野が最優秀救援投手を獲得するなど投手力を核とする守りの野球でリーグ優勝。投打にわたりチームの殆どの選手を一軍起用する文字通り全員野球だった。リーグ優勝が本拠地だったので、ビールかけなど祝勝会は広島市民球場のグラウンドでファンが観客席にいる中で行われた。
日本シリーズでは西武と対戦。川口が4試合に奮投するなどし先に王手をかけたが、最終的には3勝4敗で敗退。この年以降、優勝から遠ざかることとなる。
1992年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
4 |
130 |
66 |
64 |
0 |
0.508 |
3.0 |
山本 浩二 |
ヤクルト・巨人・阪神との四つ巴の優勝争いになる。優勝したヤクルトとは僅か3ゲーム差であったものの、ヤクルトと最終成績最下位の中日が9ゲーム差とセ・リーグ全体が例年に見ぬ大混戦となり、同率2位だった巨人と阪神に僅か1勝の差で及ばずに4位となり、1982年以来10年ぶりのBクラスに沈んだ。
北別府が200勝達成。達川が引退。
1993年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
6 |
131 |
53 |
77 |
1 |
0.408 |
27.0 |
山本 浩二 |
7月20日、津田恒実が脳腫瘍のため32歳の若さでこの世を去った。序盤は開幕6連勝するなど好調だったが、津田の死にショックを受けたチームはその後急降下。
江藤智が初の本塁打王に輝くも、前年100試合守っていた達川の引退による捕手の急な若返りの影響か捕手陣と投手陣が噛み合わず大崩壊。
9月には12連敗を喫しチームとして1974年以来19年ぶりとなる最下位に転落。山本は責任を取って監督を辞任した。山崎が引退。山本の後任には三村敏之。
1994年
順位 |
試合 |
勝利 |
敗戦 |
引分 |
勝率 |
ゲーム差 |
監督 |
3 |
130 |
66 |
64 |
0 |
0.508 |
4.0 |
三村 敏之 |
前年崩壊した投手陣を再編し主に中継ぎだった紀藤真琴、近藤芳久を先発に抜擢。紀藤は16勝5敗で最高勝率を獲得。近藤は巨人キラーとして活躍しシーズン11勝をあげる。
野手陣では控えだった金本知憲、緒方孝市、音重鎮等を積極的に起用、一定の成果を残す。前年苦しんだ捕手も西山秀二がゴールデングラブ賞・ベストナインを獲得する活躍。
一時期は最下位から10連勝の快進撃で優勝争いに加わるものの、その後失速し3位に終わる。オフに川口和久が巨人にFA移籍。北別府が引退。
1990年代後半